@article{oai:setsunan.repo.nii.ac.jp:00000954, author = {天野, 貴史 and Amano, Takashi}, issue = {24}, journal = {摂大人文科学, The Setsudai Review of Humanities and Social Sciences}, month = {Jan}, note = {1341-9315, 幸福の追求は、アメリカ独立宣言で謳われた3 つの不可侵の権利のうちの一つだが、Eugene O’Neill の戯曲The Iceman Cometh(1946)は、幸福の追求が貧しさしかもたら さず、たとえ幸せのようなものがもたらされたとしても、それは死の安らぎでしかないという皮肉により幕を開ける。財産を手に入れることが幸福をもたらさないとすれば、 O’Neill は幸福のありかをどこに求めたのか。本稿は、Ralph Waldo Emerson が提唱した「自己信頼」の思想と、Edgar Allan Poe が「天邪鬼」と呼んだ「最も原始的な衝動」と のせめぎ合いを作品から読み取ったうえで、O’Neill が本作において、自己信頼の信仰にも、1930 年代に生じた「現代の悲劇」の流行にも同調せず、むしろPoe を経由して脱Emerson の思想に傾倒したことを明らかする。自己信頼への執着が自己の普遍性どころか卑小化しかもたらさず、絶望を生き延びるための慰みさえコントロールできず、幻想の渦のなかわ ずかに残っていた主体性さえ失っていく──本作が描き出す幸福の追求はあまりに悲劇的かつ皮肉に満ちており、それゆえにO’Neill は1939 年に脱稿しながらも戦後までその上演 を延期したのだろう。}, pages = {149--162}, title = {幸福のありか――The Iceman Cometh における天邪鬼のこころ}, year = {2017} }